ORRの道路調査報告書:全国の廃道隧道酷道旧道林道を個人が実走調査したレビュー

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宇鉄海中洞門

★★★

 

宇鉄海中洞門の取扱説明書

牧野逸蔵氏主導の下、大正末期から昭和初期に開削されたという三厩竜飛間の海岸道路。国道339号線に昇格した今も現地ではその路線をアワビ道路と呼ぶ。しかし太宰は言う、そこにバスを通す余地など露ほどもないと。あるのは徒歩通行のみ許す波打ち際の細い路に過ぎぬと。昭和19年と言えば竣工から15年も経過し、道路としてはすっかり脂も乗りきった頃である。昭和4年に完成したとされるアワビ道路と太宰の残した「津軽」の整合性がとれず路頭に迷う中、第4号洞門の傍らに一筋の光明が射す。竜飛隧道物語ファイナルステージ宇鉄海中洞門の真実に迫る!

 

旧版宇鉄海中洞門1byORR

道路専門サイト:ORRの道路調査報告書

それは当路線において見た事もない小さな穴で、限りなく波打ち際に近い第4号洞門と同じ岩塊を刳り貫かれた正真正銘の穴であった。防波堤に身を乗り上げると並列する両断面の差は歴然で、それが人為的なものなのか、それとも長い年月をかけて形成された自然の侵食に因るものなのかは見分けがつかない。

旧版宇鉄海中洞門2byORR

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ひとつだけ確実に言えるのは、自動車を通せる規格ではないという事。もしもこれが昭和4年に完成したとされる初代の洞門だとしたら、昭和19年に太宰がこの地を訪れた際、終点の三厩でバスを降りそこから竜飛に向けて歩いたという記述とピタリと符号する。だがしかし「津軽」はあくまで小説であり、紀行文とは違う。

旧版宇鉄海中洞門3byORR

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従って脚色されている部分も多分に含み多少割り引かねばなるまい。これがアワビ漁の益金で貫通させた洞門だとすれば随分お粗末なものである。この程度の穴を13穿ち、それを誇りに思うとしたら哀れとしか言い様がない。昭和一桁の隧道と言えばコンクリ製が幅を利かせつつある隧道変革期だ。嗚呼それなのに津軽半島の先端では

旧版宇鉄海中洞門4byORR

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手掘りの人道隧道で御満悦ですか?んな馬鹿な!太宰は本当にこの屁みたいな洞穴を潜ったのだろうか?違う。太宰一行はどうやら第4号洞門を潜っているようなのだ。そう読み取れる部分が「津軽」に書き記されていた。「これでも、道がずいぶんよくなつたのだよ。六、七年前は、かうではなかつた。波のひくのを待つて

旧版宇鉄海中洞門5byORR

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素早く通り抜けなければならぬところが幾箇処もあつたのだからね。」「でも、いまでも、夜は駄目だね。とても、歩けまい。」「さう、夜は駄目だ。義経でも弁慶でも駄目だ。」私たちは真面目な顔をしてそんな事を言ひ、尚もせつせと歩いた。」注目すべきは、六、七年前はこうではなかったという箇所だ。その一文から

旧版宇鉄海中洞門6byORR

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彼等が第4号洞門を潜り、それより遡る事数年前まではこの洞穴が唯一の陸路であったと考えられるのである。つまり昭和4年に車道は完成していたのだ。但し竣工当時の規格を維持する洞門は現在ひとつも存在しない。何故ならば山形の廃道の隧道リストによれば昭和33年から同34年にかけて13洞門全てが改修されて

旧版宇鉄海中洞門7byORR

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しまっているからである。太宰治が潜った13の洞門は、バスはおろか自動車の通行さえ危うい規格外に等しいものであったが、国鉄津軽線の三厩延伸に合わせ、昭和中期に全てが拡幅されてしまった。僅かに原型を留めるのは、満潮時には水没する最古の路にして国道339号線の祖であるこの宇鉄海中洞門のみである。

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