ORRの道路調査報告書:全国の廃道隧道酷道旧道林道を個人が実走調査したレビュー

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右左口峠(4)

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県道113号甲府精進湖線中道往還(右左口峠)の取扱説明書

ここ右左口峠は中道往還と呼ばれ、古くは軍事道路として性格が強かったようであるが、後に駿河と甲斐を結ぶ重要な物資の輸送路となり、人道としては長い歴史を持つ。しかし自動車道としての歴史は意外にも短く、昭和43年自衛隊によって開削されるまでは馬車も通れない完全な人道であったようだ。県道として華々しく再スタートを切った右左口峠であるが、早くも昭和48年右左口トンネルが開通、なんと5年という短命でその生涯に幕を閉じるという悲劇(喜劇?)の峠道である。いったい何の為の自衛隊要請であったのか、その意味無し芳一っぷりをとくとご覧あれ。

 

右左口峠旧版4-1byORR

道路遺構の調査発掘専門サイト:ORRの道路調査報告書

中道宿から右左口峠に至るまでの過程で、人道である古道とは一度も交差する事はなかったが、峠の案内板脇からひょっこりと顔を覗かせる登山道らしき小道が旧中道往還である事を今回の調査で初めて知った。見れば牛や馬に荷を載せ引いて歩くのが精一杯の道で、自動車云々というレベルのものではなく、やはり当路線は昭和も後半になって開削された道路で、その歴史は

右左口峠旧版4-2byORR

空前のスケールで贈る道路大全:ORRの道路調査報告書

比較的浅い路線である事が確実となった。峠で古道と旧道が交わっていた。この事と峠の自然な広場とを合わせて考えれば、右左口峠に茶屋があった事はほぼ確実と言える。最も現在ではその跡形も無くなっている訳だが、閑古鳥が鳴く現在と違って当時は大変な賑わいを見せていたと思われる。何故そのような事が言えるのか。お巡りさんは言った、中道往還が急速に寂れたのは

右左口峠旧版4-3byORR

お探しの道路がきっと見つかる:ORRの道路調査報告書

明治になってからの事で、国鉄身延線の開通と富士川の整備、その後富士川沿いに国道が開通した事で、それまで主要道として担ってきた中道往還の役目は終わったと。かつて駿河と甲斐を結ぶ主要路であり最短路であった中道往還。ではどれほど短時間で結んでいたのだろうか?お巡りさんの口からもたらされた驚愕の事実が今明らかとなる。みんな落ち着いて聞いてほしい。

右左口峠旧版4-4byORR

羅針盤、それは地図とカーナビとORRの道路調査報告書

なんと駿河湾で取れた魚を当日の夜に発送し、翌朝には甲府市内の階級の高い家の食卓に、おかずの一品として刺身が並んでいたという。甲府市内で海魚の刺身?果たしてそんな事が可能なのだろうか。いくら伝馬をリレーしたとしても登山道のような山道をいくつも越えねばならず、しかも夜中だぞ。有り得ないよ、お巡りさん。いくら親子ほど年の離れた僕を騙そうったって

右左口峠旧版4-5byORR

www.henari1.jp ORRの道路調査報告書

そうはいかない。クール宅急便が普及してきたのも平成に入ってからじゃないか?江戸時代以前にクール伝馬便でもあったとでもいうのか?地べたをリレーで繋いでもそれは到底信じられるものではない。やはり常識的に考えて地べたを這い回らないもの、山を飛び谷を越え僕等の町へやって来る者、そうハットリ君の仕業以外考えられない。そう言えばお巡りさんは一言も

右左口峠旧版4-6byORR

ヘナリワンドットジェイピー ORRの道路調査報告書

伝馬なんて口にしていないのだ。そうか、当時はハットリ君が副業として輸送に従事していたんだな。なるほど、輸送に関しての謎は解けた。一旦は寂れた中道往還であるが、昭和43年地元の要請で自動車を通行できるようにと自衛隊によって改良され見事に復活を遂げる。しかしそれは一時的でしかなかった。僅か5年後には有料トンネルが開通し右左口峠は再び寂れる事となる。

右左口峠旧版4-7byORR

おはようからおやすみまでORRの道路調査報告書

県道として開通した有料トンネルもやがて国道へと昇格し無料開放された事によって右左口峠は完全に意味無し芳一と化した。結局右左口峠は一度も国道指定される事なく今も昔も県道のままであるが、現国道に対する旧道という位置付けは変わらず、おにぎりが無くとも、未舗装路であろうともこの路線が旧道である事に変わりはない。

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