ORRの道路調査報告書:全国の廃道隧道酷道旧道林道を個人が実走調査したレビュー

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笹子峠(2)

★★★★

 

笹子峠の取扱説明書

日本橋を起点とする東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の日本の根幹を成す主要街道5つを総称して五街道と呼ぶ。大名行列ご一行様が江戸と国元を往来するため整備された道で、それらは後の主要国道の原型となる。幕府が通信・輸送を円滑に進めるため、宿駅・伝馬制を整備し、公用の文書や荷物を宿ごとに配置された継飛脚の手によって、宿から宿へとリレー方式により輸送が行われた。それが今日の駅伝に姿を変え継承されているのはご存知の通りである。その五街道の一角を成す甲州街道から時空を隔て現代の伝馬ヘナリワンが、電脳公文書を送り届けたいと思う。

 

笹子峠

道路遺構の調査発掘専門サイト:ORRの道路調査報告書

笹子峠には両坑口前共に車が数台ずつ駐車可能なスペースが用意され、峠で一服する事ができる。峠への往復もそれほどの時間を要す事なく、軽いトレッキング程度で済むようで、撮影中も峠からジジババダンサーズが降りてきた。聞けばその昔は峠に茶屋があり、たいそう賑わったそうだが、今は跡形もないという。笹子隧道の開通と同時に廃業したそうだから、明治後期まで

笹子峠

空前のスケールで贈る道路大全:ORRの道路調査報告書

笹子峠は往来する人々で賑わっていた事になる。明治後期なら、この旧道の基礎となった馬車道開拓時代と初代笹子隧道を知る生き証人に、今ならまだ探し出せば出会える可能性は充分にあるではないか。よ〜し、頑張れエビチャンネル!(←他力本願モード全開)明治以前もここ五街道の一角を成す甲州街道の通行量とくれば半端ではなく、それは道中に数箇所点在する

笹子峠

お探しの道路がきっと見つかる:ORRの道路調査報告書

茶屋跡の数からも当時の繁栄ぶりが覗える。旧道沿いに建てられた木柱には甘酒茶屋跡、桃の木茶屋跡の名が見られ、車道から見えない旧甲州街道沿いにも、まだ数箇所そのような茶屋跡を見つけられるに違いない。峠の茶屋は早々と廃業に追い込まれたようだが、馬車道と交差する箇所に設けられた茶屋は自動車時代を迎えても、それなりに集客が見込めたはずで、少なくとも

笹子峠

羅針盤、それは地図とカーナビとORRの道路調査報告書

昭和33年の現トンネルが開通するまでは、儲かる儲からないは別として充分採算が採れる営業が可能であったはず。だってそれまではこの峠道しかない訳だからね。それに現トンネルが開通した所で、有料道路であるからして、全ての車両が峠道から流出した訳ではなく、いつの時代もそれは同じで、迂回路として笹子峠を経由した車両も結構な数があったはず。この峠道が完全に

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www.henari1.jp ORRの道路調査報告書

衰退するのは現トンネルが一般開放された後の事だろう。それにしても主要街道らしい余裕ある幅員の旧道であるが、これは後年になって拡幅舗装されたもので、手元にある資料によると、昭和56年の時点では旧道の大部分が未舗装路であったようだ。残念ながら僕はその時代を知らない。当時は岩盤が露出する程のガタガタ道で、幅員も1車線しかない貧弱な路線だったようだ。

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ヘナリワンドットジェイピー ORRの道路調査報告書

完全に生まれ変わってしまった現在の状態からは、想像する事すら難儀を極めるが、有料トンネルとして開通した現道の笹子隧道が昭和33年開通だから、旧道化した後も20年以上に渡り、未舗装路のままだった訳で、恐らく新設林道にも劣るような極悪道であったのではなかろうか。そんな道を自動車が当たり前のように越えていたのかと思うと非常に感慨深い。そんな馬車道時代の

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ビストロORR(日刊ORRへの御案内)

様子を色濃く残していたであろうその極悪道を、一度でいいからこの手でやっつけてやりたかったが、残念ながら今となっては橋梁や石垣といった一部残された道路遺構から当時の様子を自分なりにイメージするしかない。親子二世代で繋いできた笹子峠に、そろそろ歩道付きの孫が欲しい所であるが、産声はまだ聞こえてこない

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