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三浦峠(5) ★★★ |
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三浦峠の取扱説明書 現在の地図では無色となっている三浦峠。おそらく町道という扱いなのだろう。だがこの峠道がかつて国道であった可能性があるのだ。それは地図上からも何となくは読み取れる。しかし峠の遍歴を辿ると、一概に国道であったなどとは言い切れないのである。勿論当時の地図を持っていれば別だが、現在の地図からはどうしてもここが旧道である説明が付かないのだ。そこで早速現地へ向かい実走調査を試みた。そして長らく疑問であった三浦峠旧国道説を裏付ける証言を得ると供に、謎であった迫間峠との関係も全て明らかとなる。
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道路遺構の調査発掘専門サイト:ORRの道路調査報告書 狭く薄暗い上りとは打って変わって、下りは同じくピッチの狭い植林杉に囲まれて、多少の閉塞感はあるものの、ほぼ全線に渡って陽が差し込み、部分的には開放感溢れる見晴らしの良い場所も見られ、また気持ち幅員も1.5車線をキープしているようで、いつでもどこでもどなたでも対向車を交わせる状態にあり、こちら側は随分と恵まれている感じがする。さて、そろそろ三浦峠と迫間峠の |
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空前のスケールで贈る道路大全:ORRの道路調査報告書 関係に決着を付けねばならない。爺さんの話をもう一度思い出してみよう。爺さんは三浦峠こそ旧国道と断言したが、迫間隧道を含む迫間峠は行き止まりの道であったと言っただけで、一言も旧国道などとは言っていない。当初は現道の迫間トンネルに対する旧道が迫間隧道で、旧旧道が三浦峠かと思われた。しかしそれはどうしても説明がつかないのだ。迫間トンネル迫間隧道の親子二代 |
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お探しの道路がきっと見つかる:ORRの道路調査報告書 説は、その名称からも素直に受け入れても仕方ないだろう。だが、その説を立証するには、その先にある相賀浦トンネルを検証しなければならない。トンネルある所に旧道ありの鉄則を用いれば、相賀浦トンネルに対し旧隧道もしくは峰越えルートがあるはずだ。僕は早速現地へ急行したが、そんなものは見当たらなかった。それらしき枝道も無かったし、バイパスのような線形から |
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羅針盤、それは地図とカーナビとORRの道路調査報告書 相賀浦トンネルを含むその前後の取り付けは、何も無かった土地を近年切り拓いたものという線が濃厚となってきた。ひとつ考え得るのは先代の相賀浦隧道に大改修を施し、見るも無惨なコンクリトンネルに造り替えてしまったという説だが、相賀浦トンネルの前後に旧道と思わしき残骸がひとつも見つからず、そこには快適な2車線路しかない事から、昭和50年前後までそこには道路が存在 |
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www.henari1.jp ORRの道路調査報告書 しなかったと考えるのが妥当だ。やはり爺さんの言う通り相賀浦トンネルはバイパス状の新ルートであり、それに対する旧道が三浦峠なのだ。つまり三浦峠は親子三代ではなく二代という事になる。では迫間隧道と迫間トンネルの関係はどのようなものかと言えば、爺さんの言う行き止まりがヒントになる。その昔は隣町へ行くには三浦峠を越すしか無かった。坑門の形状から時を同じくして |
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ヘナリワンドットジェイピー ORRの道路調査報告書 迫間隧道も供用されていた。但し行き止まりの道としてである。行き止まり、地図上で拾い上げるともうこれしか考えられない。それは県道722礫浦押淵線である。その昔は押淵変電所を過ぎると、道は二手に分かれ、一方は三浦峠を越す砂利道の国道、もう一方は迫間隧道を抜け海岸線を走る行き止まりの県道であった。OK!謎は解けた。結論:迫間隧道は県道の隧道であり旧国道では |
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なかった。但し現在国道指定されている迫間トンネルの先代である事に変わりはなく、三浦峠から相賀浦トンネル経由に国道が大幅な路線変更をされた事で混乱を招いたようだ。誰が言ったか知らないが、道は生き物であると。時代と供に格が上下し、グレードも路線番号も変わってしまう。だからこそ道路探訪は奥が深く面白いのである。 三浦峠4へ戻る |