ORRの道路調査報告書:全国の廃道隧道酷道旧道林道を個人が実走調査したレビュー

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九人ヶ塔峠()

★★★

 

九人ヶ塔峠の取扱説明書

国東半島の付け根に位置する別府と中津の丁度中間付近の山中に、ゆくゆくは重要な土木遺産に指定されるであろう希少価値の高い隧道が眠る。近年宇佐市に吸収された院内町と安心院町。かつて隣り合っていた二つの町の境界線上に、その昔から人馬の通行さえ容易ならざる急坂険路の難所が立ちはだかっていた。明治末期においても依然として交通途絶であった九人ヶ塔峠に待望の風穴が開くのだが、ここは日本一の石橋の町を謳う旧院内町である。現存するターゲットの材質構造が石積みでなければ嘘である。手掘り隧道である可能性も多分に含む中、僅かな期待を胸に第一次調査に赴いたのが2000年の秋。そこで僕はいきなり全国区の超レアな代物を目にする事となるのだ。

 

大正道(左)昭和道(中央)明治道(右)の三叉路

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九人ヶ塔峠における大正道の概要が大方掴めた所で、今度は隧道開通以前の道程がどのようなものであったかを掘り下げてみる。再び安心院側より九人ヶ塔トンネルと峠を仰ぐ大正道との分岐点に立っているのだが、実はそこが明治道との分岐点でもあったと爺さんは語る。右手の斜面を駆け上る獣道のような頼りない小径、それが隧道開通以前に使われていた旧

街道臭漂う小径

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旧道であるという。予め断っておくがコレ車道ではない。馬車や荷車等の車両の往来は九人ヶ塔隧道の竣工後の事であり、それ以前はこの人と牛馬の通行がやっとの山道を、えっちらこっちらと越していったのだと言う。分岐点には九人ヶ塔の由来が記された看板が立つ。龍王城に籠城していた安心院千代松丸は防衛のこの峠で家臣共々九人戦士し九代280年余

S字の掘割

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続いた安心院氏も滅亡した。(天正十年1582年安土桃山時代)江戸時代(1747年)この九人の供養のため頂上に九体の地蔵を安置した。現在もここにある。峠までは約100mと結構な至近距離にあるが、斜面を直登に近い形で尾根に達するその道は、爺さんの言う通り馬車道ではないようだ。一箇所だけS字を描く掘割は人力車の往来を予感させるもので

明治まで利用された九人ヶ塔峠

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あったが、2mを割る幅員とコーナーのきつさ、それにけして緩くない斜度を加えると、爺さんの証言通り車両の往来は無かったと見るのが妥当だ。近年保存会の方々が旧旧道を刈り払いしたとはいえ、すっかり自然に還ってしまっている峠道、遂にその尾根に達した。車窓から見えるV字の切れ込みはここより30mほど左寄りとなりそこが本来の九人ヶ塔峠なのだが、この

九人ヶ塔峠に残る茶屋跡らしき更地

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窪みこそが江戸由来或いはそれ以前から使われていた街道の峠である事を、サミットに残る茶屋跡或いは関所跡らしき広大な更地が物語る。有史以来明治年間まで通りすがる幾多の人々がここで一服したのだろう。かつてそこにあったはずの何もかもがものの見事に朽ち果て、今では人工的に均された更地だけが建造物の存在を匂わせるに止まる。道路の峠とは

九人ヶ塔峠の供養塔

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若干距離を隔てた同じ尾根上に、青面金剛塔と彫り込まれた石碑と九体の地蔵が祀られている開けた空間がある。現道から見るV字の切れ込みがここに当たり、正確な九人ヶ塔峠とはこの供養塔付近を指すのだろう。現在でも辛うじて道の形を成す峰越道が確立する以前は、こちらが使われていたのかも知れないが、古代の道は復元の目処さえ立たたぬほど完全に

今にも途切れそうな院内側へ続く古道

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失われて久しい。再び更地のある街道筋へ帰着すると、院内側へ向け心細い小径が続いており、いくらかその痕を追ってみたのだが、激藪に阻まれた上に分散する獣道を見て探索を打ち切った。元来車道ではないこの道をこれ以上深追いする必要もないだろう。九人ヶ塔峠の第一次調査はこれにて完了とする。えっ一次?

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