ORRの道路調査報告書:全国の廃道隧道酷道旧道林道を個人が実走調査したレビュー

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九人ヶ塔峠()

★★★

 

九人ヶ塔峠の取扱説明書

国東半島の付け根に位置する別府と中津の丁度中間付近の山中に、ゆくゆくは重要な土木遺産に指定されるであろう希少価値の高い隧道が眠る。近年宇佐市に吸収された院内町と安心院町。かつて隣り合っていた二つの町の境界線上に、その昔から人馬の通行さえ容易ならざる急坂険路の難所が立ちはだかっていた。明治末期においても依然として交通途絶であった九人ヶ塔峠に待望の風穴が開くのだが、ここは日本一の石橋の町を謳う旧院内町である。現存するターゲットの材質構造が石積みでなければ嘘である。手掘り隧道である可能性も多分に含む中、僅かな期待を胸に第一次調査に赴いたのが2000年の秋。そこで僕はいきなり全国区の超レアな代物を目にする事となるのだ。

 

九十九俺で高度を稼ぐ旧道

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明治40年といえば九人ヶ塔隧道の竣工から6年も遡らねばならず、迂回路の無い同一路線の単一峠を越す道程において、6年もの隔たりはどう解釈すれば良いのだろうか?大正二年と明確に刻まれた扁額が備わっているにもかかわらず、九人ヶ塔隧道の竣工年を不明としている点でリストの情報を額面通り受け取る事はできないが、それにしても明治40年という明確な

旧道の警戒標識と現道のボックスカルバート

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数字が示されている以上役場の台帳上に記録が残っていたか、或いは聞き取り調査を行った可能性があり、出所不明な全く根拠のない数字が記載されているとは考え辛い。6年という歳月は妙にリアルで嘘っぽくもあり、また明治隧道が存在したとしても全く驚けない土地柄から下手に排除できない所が何とも悩ましいではないか。九人ヶ塔隧道の現役時代を良く知る

S字カーブを描く旧道

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爺さんも、大正初期の生まれという事で流石にそれ以前の様子を語れと言っても何も出てこない訳で、物心ついた時には総切石積の九人ヶ塔隧道と手掘りの一人ヶ塔隧道というセットは確立しており、竣工当時の様子を語れるような地元の高齢者は既に皆千の風になってしまったという。隧道リストを額面通り受け取り扁額に見る竣工年を鵜呑みにするならば以下のような

旧道上に起立する警戒標識

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仮設が成り立つ。明治後期九人ヶ塔峠に車道建設案が持ち上がり、安心院・院内の両側より同時に開削が進められる。深見川より壁のようにそそり立つ高台の一部を削り、盛り土に堀割と大規模な施工となった安心院側に負けず劣らず院内側も峠以外にもうひとつ隧道を穿つ必要に迫られ、明治40年に一人ヶ塔隧道が竣工する。その後も峠に向い延伸工事は続き大正の

旧道と現道の交差部

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足音が近づいてきた頃、難産の末九人ヶ塔峠に待望の風穴が開き、当時は最盛期であった石橋の職人に白羽の矢が立ち、その知恵と巧みな技で大事業の総仕上げを総切石積という形で納め、その偉業を目に見える形で後世に残したかったのではないだろうか。峠道全体の工事に取り掛かったのは明治38年前後で、旧県道が全通の日の目を見たのは大正二年と

田畑に転用された旧道跡にはガードレールの残骸だけが残る

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仮定すると8年もの歳月を要した大事業であった事が分かる。この工期は一見長いように感じられるが、実は九人ヶ塔峠の地盤はかなり軟弱で、その昔から地滑りがたびたび発生し近年でも全面通行止を余儀なくされた経験を持つ。その事から明治末期の施工途中で自然災害によりたびたび工事が頓挫し遅延したという仮説は十分成り立つのである。そうした地質の問題

国道387号線とのかつての分岐点

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があった事も九人ヶ塔峠が総切石積となった理由のひとつであると推察される。明治40年竣工という謎だけを残し先に逝ってしまった一人ヶ塔隧道。消滅した小隧道を除いては旧道を取り巻く環境にほとんど変化は無く、今は畑と化した旧道の残骸は国道387号線へと滑り込む。

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