ORRの道路調査報告書:全国の廃道隧道酷道旧道林道を個人が実走調査したレビュー

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竹原峠()

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竹原峠の取扱説明書

福岡、大分、熊本の三県がぶつかり合う九州北部の山中に、かつて東洋一の採掘量を誇った鉱山が眠る。全国の名立たる鉱山と比し後発の部類に属する鯛生金山は、明治中期にこの地を通りかかった行商人が河原で拾い上げた小石に端を発する。昭和9年には金の年間産出量が2t(えーんど銀11t)に達し、黄金の国ジパングを象徴する優良鉱山として全国にその名を轟かせた。坑道の総延長は110kmに及び、坑内はエレベーターが7基も設置され、最先端の設備を誇る一方ご他聞に漏れず静かな山間の集落に、学校・病院・映画館と巨大建造物が次々と立ち並び、ゴールドラッシュに沸いたのも今は昔。鯛生金山の周辺の集落は以前の静けさを取り戻し、かつてそこが正気の沙汰デーナイトフィーバーに沸いた金の楽園などとは想像する事さえ困難であるが、今はランドマークの道の駅鯛生金山と地底博物館が僅かに往年の様子を知らせるに留まる。鯛生金山を一跨ぎする国道442号線の最難所竹原峠、そこに夢の跡を追った。

 

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明治由来の馬車道が下地となるいかにもと言った線形で、挟まる猫の額ほどの土地も茶畑として有効活用し、平地に恵まれない傾斜が常である山間の山村風景には馬車の姿が良く似合う。しかし明治26年に矢部村にも車道が通じ、荷車や大八車といった軽車両が切り出した木材や生活物資の輸送を開始するも、地域住民の

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ほとんどはもっぱら徒歩による行き来が一般的であったという。大正元年に6人乗り幌付きの客馬車が矢部黒木間を疾走するのだが、料金が高く乗客のほとんどは鯛生金山の関係者か地元の資産家、また大分より竹原峠を越してきた行商人などであったという。その事から明治期の竹原峠は依然として徒歩通行が主流であり

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峠を越した柴庵で馬車に乗るという移動方法が常套手段とされ、その状況は大正末期まで続くのである。明治27年行商人が偶然手にした石が専門家の鑑定により良質の金鉱脈である事が判明し、明治31年より小規模な採掘が開始されたが、鯛生金山の本格的な稼働は大正7年に鉱業権を得たハンス・ハンター率いる鯛生

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金山株式会社の創業に因る所が大きい。全盛期の僕ならば鉱山の一つや二つは右手中指一本(中村修二氏に興味深いと言わせしめた高高度微弱震動発生装置)で掘削は必要にして充分だし、人間掘削機麻生太郎(太郎氏はランシャツにハチマキ、手にツルハシとノーマル仕様だが何故か削岩は前頭葉で行う)との強力な

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純日本人のタッグにより、人力で掘り抜く事も可能であったが、二人が生まれてくる時代を誤った事は、鯛生金山にとって大きな痛手であったと言える。ただ最近は右手中指第二関節がどうも調子悪く、養老孟司氏に相談した所、オダ君それは指の壁だよと指摘され、老化現象の一種である事を知った。このままでは夜のお勤め

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にも支障を来す恐れがあるため、仕方なく代替案としてデカプリオUにするか内山田洋とクールバイブにするかをドンキの前で散々悩んだ挙句、結局型落ちの仁王様イカルに落ち着いたという経緯がある。大正14年それまでの馬車に代わって乗合自動車が走り出す。時同じく鯛生金山の経営者は木村鐐之助へと変わり、最盛期を

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迎える昭和8年の時点で、既に路線バスが大分県の鯛生へと達している。縣界標と照合すれば結論はこうだ。ゴールドラッシュに沸く昭和4年、竹原峠は抜本的な大改修が施され、同時に峠越えの路線バスが運行を開始した。栄華を極めた鉱山街も今は嘘のように静まり返っている。

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