ORRの道路調査報告書:全国の廃道隧道酷道旧道林道を個人が実走調査したレビュー

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竹原峠(2)

★★★

 

竹原峠の取扱説明書

福岡、大分、熊本の三県がぶつかり合う九州北部の山中に、かつて東洋一の採掘量を誇った鉱山が眠る。全国の名立たる鉱山と比し後発の部類に属する鯛生金山は、明治中期にこの地を通りかかった行商人が河原で拾い上げた小石に端を発する。昭和9年には金の年間産出量が2t(えーんど銀11t)に達し、黄金の国ジパングを象徴する優良鉱山として全国にその名を轟かせた。坑道の総延長は110kmに及び、坑内はエレベーターが7基も設置され、最先端の設備を誇る一方ご他聞に漏れず静かな山間の集落に、学校・病院・映画館と巨大建造物が次々と立ち並び、ゴールドラッシュに沸いたのも今は昔。鯛生金山の周辺の集落は以前の静けさを取り戻し、かつてそこが正気の沙汰デーナイトフィーバーに沸いた金の楽園などとは想像する事さえ困難であるが、今はランドマークの道の駅鯛生金山と地底博物館が僅かに往年の様子を知らせるに留まる。鯛生金山を一跨ぎする国道442号線の最難所竹原峠、そこに夢の跡を追った。

 

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最終的に2車線と余裕のある幅員を持つに至った竹原峠であるが、トンネルが開通するまでの苦肉の策として幾度かの改修を経ている事は、路傍の片隅で息を潜める古い石垣を見れば一目瞭然である。その積み上げ方は長崎の日見峠に見る形状に非常に酷似しており、これが九州独特のものなのかは現時点において

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定かでないが、興味深い調査対象物である事だけは確かだ。また嫌が応にもドライバーの視界に飛び込んで来る遺構がこの縣界標で、後にも先にも竹原峠においてこれ以上価値のある道路遺構は見つかっていない。江戸や明治の縣界標はこれよりもずっと小さく、建立年を始めとする詳細な刻印が無い、風化により判読が

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困難、小さ過ぎて埋没、再整備の際に撤去等ぞんざいな扱いを受け、この世から葬り去られた標柱も少なくない。竹原峠に現存する縣界標は昭和4年製であり、石柱の規模も然る事ながら、その圧倒的な存在感により難を免れたのだろう。最終的に2車線以上ものある大規模な切り通しと化し、片側に落石防護壁まで備える

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竹原峠は、鞍を跨いだ福岡県側に狭路時代の爪痕を残す。普通車同士の離合さえ叶わず、大型車両に至っては最後まで通行さえ許さなかった竹原峠の福岡県側に見る紆余曲折の難路に僕は明治道を重ね合わせた。村史によれば記録に残る道らしい道は、それまでの単なる杣道だったルートを官道として整備し、竹原峠を越え

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大分県中津江村に至る川沿新道(豊後別道)で、時は1684年の事である。沿道には一里塚や一里石を配したとされるが、車道とは重ならない人馬道にそれらが現存するか否かは定かでない。国道442号線の基礎となる車両の通行を意識した県道が開通したのは明治26年である。幅員は2mと狭く断崖の壁面にへばり付く

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引っ掻き傷のような頼りない道で、離合箇所も少ない当時は、荷車や馬車のすれ違いに相当難儀したという。県道の開通により大正元年には客馬車が登場しているが、竹原峠を越したという記述はどこにも見当たらない。矢部村は八女へ、中津江村は日田へ出るのが一般的であり、単なる県境以上に竹原峠は両村を分断する

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大きな壁として立ちはだかっていた。その境界線を破り県という枠組を超えた交流を促進したのが他でもない鯛生金山の繁栄である。後に砂利道時代の竹原峠をボンネットバスが疾走するのだが、両村を繋ぐ公共交通機関の灯は途絶えて久しい。

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