ORRの道路調査報告書:全国の廃道隧道酷道旧道林道を個人が実走調査したレビュー

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矢ノ川二号隧道

★★★

 

矢ノ川二号隧道の取扱説明書

明治より長らく使われてきた矢ノ川峠一次改修道路に代わり、現代の大型車両をも楽々通し、国からのお墨付きを得るほどの押しも押されもせぬ幹線道路が誕生したのは昭和初期で、矢ノ川峠道の遍歴において二次改修道路と呼ばれるそれが、今日僕等が一般的に旧道と呼ぶ4m幅の砂利道の事を指す。そこにはいくつもの橋梁が架けられ、五本の隧道が突かれた。時は丁度メンテナンスフリーを謳い文句とする夢の人造石が土木業界に普及し始めた時期で、明治期より格段に進歩した土木技術とコンクリートという革命的な建築資材との相乗効果は、矢ノ川峠道の線形を大きく変える事となる。地形を意のままに操れる旨みを知った当時の行政は最先端技術をふんだんに採り入れ、明治以来車両を通さぬ車道と揶揄されたファジーロードから、一気に矢ノ川峠を名実共に真の車道というメジャーロードへと押し上げた。一級道路の象徴である隧道群。計五つ突かれた古隧道の四本目が矢ノ川二号隧道である。

 

矢ノ川峠

道路遺構の調査発掘専門サイト:ORRの道路調査報告書

【傅唐大橋と真っ黒に日焼けしたガードレール】

傅唐大橋、それは1/50000地形図における尾鷲、木本の両図に跨る矢ノ川峠越えで唯一記載される橋であり、尾鷲に注ぐ矢川の源流点に程近い場所を跨ぐ大橋の名に相応しい立派な橋梁である。

その規格はここまで見てきたどの橋よりも頑丈な造りで、洗練された構造体は現代でも通用する代物だ。それもそのはず傅唐大橋は昭和中期に付け替えられた旧道上では最も新しい部類に属する道路遺構なのである。

南谷大橋を筆頭とする昭和初期産の橋梁群とは明らかなスペックの違いから、傅唐大橋だけは別物と思っていい。

矢ノ川峠

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【フラットな路面とコンクリの法面】

凡そ四半世紀の隔たりは土木技術の進化と材料の改良により、全く風化の跡が見られない耐久性に優れた橋梁を生み出した。

傅唐大橋の親柱には昭和37年7月に竣工した証が刻まれている。矢ノ川峠旧道が全通の日を見たのが昭和11年であるから、約四半世紀の間持ち堪えた事になるが、他の橋梁群や隧道群がことごとく今日まで竣工当時の姿を維持したままなのに対し、唯一短命に終わった旧道上最大の橋梁、傅唐大橋。初代の姿を拝む事は最早叶わぬ夢であるが、その姿は現存する他の橋梁群と同じ構造であったと考えるのが自然だ。

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【昭和初期製の側溝と第四の穴、手前に待避所有り】

現存する橋梁群が風化しつつも今日まで持ち堪えられたのは、距離の短さにある。ほとんどが数mという短さであるのに対し、傅唐大橋の図体は余りにも巨大過ぎた。

日本の土木事業においてまだ得体の知れない存在であったコンクリを、メンテナンスフリーの謳い文句を鵜呑みにて、過信した結果のツケではなかろうか。

後にコンクリ単体での耐久性は意外と脆弱である事が判明し、今日では間に鉄筋を噛ます事が常識となっているが、コンクリ神話がまかり通っていた当時はその必要はないとされたのか、はたまた鉄筋をケチったか。

矢ノ川二号隧道

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【矢ノ川二号隧道尾鷲側坑門】

その真相を確かめるべく今一度周辺の捜索を試みた。そしたらなんとめっけましたよ初代の親柱を。僅か一本だけでしたが路肩に転がっていました。そこにはおぼろげながらこう刻印されていた。施工主:山口組、設計:姉歯設計事務所。ひぇ〜!今をときめく大御所のタッグじゃないですか!手抜き工事に耐震偽装、なるほどこれで全ての謎が解けた。初代傅唐大橋は逝くべくして逝った訳だ。

ここに来て矢ノ川四号隧道のコンクリ覆工の謎が解けるような気がした。そのキーマンは傅唐大橋である。

矢ノ川二号隧道

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【常に湿気を帯び大量の苔が付着する内壁】

四号隧道のシャープな断面、あれはやはり昭和中期に改修されたもので、時は傅唐大橋が架設された昭和37年もしくはその前後ではないのか。

これが現地より僕の導き出した仮説だ。

二代目傅唐大橋を渡った直後左90度のほぼ直角に折れる旧道。そこには錆び付いた上に日焼けしたのか真っ黒になったガードレールが横たわっていた。

それは昭和中期に入ってから出現したもので、二代目傅唐大橋に合わせて設置されたものだ。

矢ノ川二号隧道

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【岩塊を切り割っただけの豪快な熊野側坑門】

昭和初期と中期の遺構が混ざり合う旧道は見ていて飽きない。

傅唐大橋から直線的に上り詰めると今度は第四の隧道が視界に飛び込んでくる。それはこれまで見た隧道群と見た目は全く同じ構造をした素掘りの隧道で、距離の短さにサイズそれに全く装飾を持たない面構えまでそっくりだ。

路面もダートのままであり、昭和初期の状態をキープする隧道としては、三号隧道に続き二本目となる矢ノ川二号隧道。その存在は国土地位院発行1/50000地形図に記されてはいない。

矢ノ川二号隧道

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【隧道を抜けた直後にカーブを描く見通しの悪い熊野側】

何故か?その答えは恐らく延長距離にある。

ここまで見た隧道の距離を、山形の廃道様より授かる隧道リストより列挙してみよう。

五号:22m、四号:20m、三号、35m、二号16m。

矢ノ川峠旧道にぶち抜かれた隧道群の中で最短距離を誇る矢ノ川二号隧道。20mを切る短い隧道を国家は穴と認めないのだろうか?

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