ORRの道路調査報告書:全国の廃道隧道酷道旧道林道を個人が実走調査したレビュー

トップ>隧道電撃ネットワーク>北九州>大分>年田隧道

年田隧道(3

★★★

 

年田隧道の取扱説明書

現在は国東半島への玄関口として単なる通過点となってしまった杵築。かつて城下町として一時代を築き杵築を起点に放射状に延びていた街道筋も今では見る影もないが、時代が明治に変わってから改修を受けた道路は今日でもその痕跡を容易に辿る事ができ、極稀に改修当時のまま現存するお宝物件に当たる事もある。年田隧道もそんな希少性の高い物件のひとつだ。このたびはれて年田隧道が明治時代の遺構である事が確定した為、最新の状況と史実を交えながら当物件を可能な限り掘り下げてみたいと思う。

 

年田隧道

道路遺構の調査発掘専門サイト:ORRの道路調査報告書

延長が79mと100mにも満たぬ短区間で壁面の様子は目まぐるしく変化し全く落ち着く事を知らぬが、内壁に見る硬質な岩盤の超滑らかな岩肌こそ、世紀を跨いでもほとんど劣化を見ない開削当時の断面なのだろう。他は落盤や自然風化による侵食で原形を留めているとは言い難いが、年田隧道という全体像としては明治以来ほとんど変わらぬ風貌でどっしりと構え、実に

年田隧道

空前のスケールで贈る道路大全:ORRの道路調査報告書

大物然としている。簡易舗装と同時に側溝が用意され、ただでさえ狭い洞内が輪をかけて縮小しているが、この改修方法は直近の野田洞(下野田隧道)に習ってのものだ。今でこそ路面が簡易コンクリ舗装されてしまっているが、そのマイナスポイントを補って尚余りある魅力を感じるのは、年田隧道が単なるテボッチャーでない事を知ってしまったからであろうか、それとも最初

年田隧道

お探しの道路がきっと見つかる:ORRの道路調査報告書

に潜り抜けた時から大物の予感がしていたのだろうか?猪野の爺さんが物心ついた時には既に存在していたと聞かされた時から、年田隧道が昭和産でない事だけは分かっていた。場所的に見て戦後の失業救済策として突貫で刳り抜いた遺産価値の低い物件とも考えられたが、その過小評価にアレがきっぱりとNOを突き付けてきた。市の土木課も正体不明と匙を投げ

年田隧道

羅針盤、それは地図とカーナビとORRの道路調査報告書

当時を知る者が全て千の風となった今、もうあれを紐解く以外に手はない。そう、国土地理院の地形図である。古地図は語る、ターゲットが明治隧道であると。この界隈で逸早く風穴が開けられたのは後に国道へと昇格する野田洞である事は既に述べたが、やや遅れをとりながらも明治後期に追随する形で年田隧道もリリースされた事は、明治36年測量の地形図に既に

二代目錦江橋の遺構

www.henari1.jp ORRの道路調査報告書

隧道の記載がある事から間違いないのだ。当時のルートを起点より辿ってみよう。八坂川に架かる錦江橋、ここが年田隧道を含む峠越え路線の起点となる。現在は三代目と二代目の土台のみ残るが、初代は有料の木造橋であった。錦江橋を渡ると道は二手に分かれる。ひとつは野田洞を潜る日出への最短最速路線である。もうひとつが年田隧道を潜り別府湾に面する

猪野隧道開削跡

ヘナリワンドットジェイピー ORRの道路調査報告書

南杵築へ向かう路線だ。錦江橋を発った路線が最初にぶちあたる壁がこの巨大な切り通しである。僅か十数年前までここに小さな穴があったと畑仕事に従事する老婆は語る。それが年田隧道竣工年の鍵を握る猪尾隧道である。両者は明治期の図面に揃って登場し、どちらが欠けても一本の路線として成立し得ない云わば表裏一体の関係にある。なんとこの切り通しの

年田隧道

おはようからおやすみまでORRの道路調査報告書

傍らに猪尾隧道の竣工年が刻まれた石碑が現存するのだ。そこに刻まれるは明治38年の文字。石碑建立までのタイムラグと測量年とを考慮すれば、猪尾・年田の両隧道は明治35年頃の竣工と見ていいだろう。馬車道時代の貴重な道路遺構として失われた相棒の分まで年田隧道には今後も現役で在り続けて欲しいと願う。

年田隧道2へ戻る

トップサイトナビゲーター管理人について感想・お問い合わせ