ORRの道路調査報告書:全国の廃道隧道酷道旧道林道を個人が実走調査したレビュー

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小阪峠(旧国道42号線/熊野街道)(6)

★★★

 

小阪峠(旧国道42号線/熊野街道)

つい最近まで僕の中で、それは単なる未開通県道のしょーもない峠として認識されていた。だが実はその裏に恐るべき真実が隠されている事など知る由もなく、この峠の手の平で踊らされる無邪気な僕がいた。普段は大人しい顔をしている小阪峠、その遍歴を一度紐解けば実に大胆な姿があらわとなり、まるで本当の姿などおくびにも出さない小悪魔のような小阪峠は、僕を大いに翻弄させた。時の流れに身を任せ、変幻自在に姿形を変える妖艶な小阪峠は、日を追う毎に僕を虜にし、気が付けば僕は小阪尚輝と改名していた。たわわに実った〜早紀ちゃんの胸に〜小阪尚輝が〜嵌った〜(ウルルン風)カットカットカット!それじゃぁプルルン滞在記でしょーが。テイク2:たわわに実った〜早紀ちゃんの胸に〜保坂尚カットカットカット!それじゃぁノンフィクションでしょーが。テイク3:小阪峠で〜バスも走った名道に〜小阪尚輝が〜出会った〜♪

 

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小阪隧道は十数年という長きに渡り、放置プレイを余儀なくされたが、戦争に駆り出されなかっただけまだマシである。当時球界の宝とまで称された沢村栄治は、二度とマウンドの土を踏む事はなかったのだから。生きる屍と化しつつも、後に木本隧道とのバッテリーを約束された小阪隧道は、上空で繰り広げられるドンパチをよそに、静かにその時を待った。

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昭和22年待望の工事再開の知らせが届くや否や、佐田坂は僅か2年という短期間で全線開通へと漕ぎ着ける。明治大正昭和という激動の時代を、掛け替えのない存在として地域に貢献した評議小阪の両峠に、昭和24年10月31日佐田坂は静かに引導を渡した。現在も供用されるR42佐田坂は、戦後間もなく難産の末にその産声をあげ、今に通ずる国道の原型を築いた訳たが、それまで佐田坂とは小阪峠を指していたと市史に記されている。

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当時の飛鳥・五郷の車引きは夜も明けぬ2時頃からランプを灯し、一家総出でこの峠に挑んだという。コッテ牛と呼ばれる特に気性の荒い雄牛を選び、木材を満載した牛車は急峻な佐田坂(現在の小阪峠付近)に差し掛かると、コッテ牛をバックアップする形で、家族全員で押しに押したという。あえぎながらやっとの事で登頂すれば、そこには評議峠の茶屋が待っていて、大概はここで一息入れたそうな。

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だが問題は上りよりも下りである。荷車が通せるようになったとは言え、開削当時の評議峠は今よりもずっと狭く路盤も軟弱な悪路である。そこを牛で引っ張る訳だから、その速度たるや尋常でない低スピードであったはず。だからこそ夜明け前に飛鳥・五郷を発たなければ、日没までに荷を木本へ運び込む事など出来なかったのだ。それに加えて道中にいくつか見られる急勾配が車夫を苦しめた。

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下り坂は必死の思いでブレーキをかけ続けるという大変危険な重労働の繰り返しであったという。舗装路となった今では自転車であれ車であれ、ものの数十分で滑り降りるという感覚だが、その昔は家族総出の一日掛りで峠を越すという命懸けの大仕事であった。以上が明治時代の話で、時は過ぎ大正11年頃になると評議峠にトラックが走り出す。

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車引きとトラックでは人件費削減に圧倒的な物量の差、それに大幅な時間短縮と何もかもが桁違いで、全く比べ物にならないのは火を見るより明らか。しかし車引きは一歩も引き下がらず、トラックに道を譲っては生活あがったりと、どこまでも続く狭く長い長い坂道を、頑なに一歩も譲らぬ牛馬車もあったという。トラックを阻害するだけまだしも、公共交通機関であるボンバスの運行に支障をきたしたとなれば、タダでは済まない。

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だが国鉄バスの登場は昭和11年まで待たねばならぬはず。ところが国家よりも先に布石を敷いた者がいるのだ。市や県や国といった行政よりも早く尾鷲木本間にバスを走らせたのはいったいどこの誰だ?しかも時代は大正まで遡らねばならぬのだ。この全米をも震撼さえる新事実に僕は思わずチェリーパイを落としそうに(欧米か!)

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