ORRの道路調査報告書:全国の廃道隧道酷道旧道林道を個人が実走調査したレビュー

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九人ヶ塔隧道(3)

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九人ヶ塔隧道の取扱説明書

国東半島の付け根に位置する別府と中津の丁度中間付近の山中に、ゆくゆくは重要な土木遺産に指定されるであろう希少価値の高い隧道が眠る。近年宇佐市に吸収された院内町と安心院町。かつて隣り合っていた二つの町の境界線上に、その昔から人馬の通行さえ容易ならざる急坂険路の難所が立ちはだかっていた。明治末期においても依然として交通途絶であった九人ヶ塔峠に待望の風穴が開くのだが、ここは日本一の石橋の町を謳う旧院内町である。現存するターゲットの材質構造が石積みでなければ嘘である。手掘り隧道である可能性も多分に含む中、僅かな期待を胸に第一次調査に赴いたのが2000年の秋。そこで僕はいきなり全国区の超レアな代物を目にする事となるのだ。

 

目筋が美しい九人ヶ塔隧道の内壁全景

ドライブ&ツーリングのネタ帳ORR

九州石工のルーツを探ると熊本城の築城に辿り着く。ここで近江石工や備前石工より肥後石工が指導を仰ぎ、培われたノウハウは長崎の中島橋へ投入され、寛永11年日本初のアーチ橋が出現する。それが今日誰もが知る所の長崎名物二連アーチの眼鏡橋である。中島橋の成功に端を発した石橋架橋技術は肥後で熟成された後、その流れは豊後にも波及する。

九人ヶ塔隧道の側溝

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文化年間より本格化した大分の石橋造りは各地に優秀な石工を多数輩出する事となるが、中でも明治以降に名を馳せた臼杵の川野茂太郎、耶馬渓の甲斐伊蔵、院内の松田新之助の三大巨匠は、現存する各地の石橋群を産み落とした名棟梁で、ここで注目すべきは石橋王の異名を持つ院内の松田新之助である。生涯に50基を架橋した川野茂太郎には数的には大きく水を開けられるものの、ビジュアル的に優れていると評判の橋梁は全部で15基。

アーチ環に三連の迫石を持つ九人ヶ塔隧道のポータル

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そのどれもが甲乙付け難い秀作で現実に複数の橋梁が有形文化財に指定されているが、中でも最高傑作とされるのが宇佐別府道路院内インター直近の恵良川を跨ぐ鳥居橋で、その竣工が大正5年という事から九人ヶ塔隧道との誤差は僅かに3年、しかも両者の距離はたった4kmしか離れていないのである。

苔生した掘割の石垣

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では九人ヶ塔隧道が起工されたと考えられる明治末期から大正元年にかけて石橋王はいったいどこにいたのか?なんと彼は院内にいた!それも九人ヶ塔隧道からは目と鼻の先に位置する荒瀬橋(旧国道387号線)の架設を手掛けていたのである。両者は距離にして僅か3km、共に大正2年に竣工している。

近年舗装された九人ヶ塔隧道の掘割

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道路隧道においては手掘りやレンガ隧道が大勢を占める中、全国的に見ても稀な総切石積の隧道を築造するにあたり、目と鼻の先で荒瀬橋架設の指揮を執る石橋王の意見を仰がない方が不自然であるし、また生涯を通じて院内の石橋造りに情熱を注いだ松田新之助が斬新な道路隧道の取り組みに関心を示さない方がどうかしている。もうこれで石橋王が一切関与していないと説く方が難しいと考えざるを得ない。

新たな処理が施された九人ヶ塔隧道の石垣

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洞内もそうだがポータルに見る水平基調も非常に上品で、上から笠石・扁額・帯石・アーチ環と装飾も必要にして充分。中でも通常は一つである迫石が三つも嵌め込まれている点に、匠の美意識への拘りが感じられる。九人ヶ塔隧道は上品な目筋にみる見た目の美しさに加え、門柱を備えない点も女性的であり、これを隧道の貴婦人と呼ばずして他に何と言おう。

九人ヶ塔トンネルと九人ヶ塔隧道

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繊細な造り込みひとつとっても絵的に評価の高い松田新之助が何等かの形で九人ヶ塔隧道の開削に関わり、手腕を揮ったとしても全く驚けないのである。石橋の架橋のみならず隧道の開削においても院内の石工集団がいかに高い技術水準を持ち合せていたかが証明できるのである。

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