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〜道路格闘家へなりと闘う鉄馬ヘナリワンの軌跡〜

ORRの道路調査報告書:全国の廃道隧道酷道旧道林道を管理人が実走調査したレビュー

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野田洞(3)

★★★★★

野田洞(のだどう)の概況

旧道と現道とのギャップが余りにも激しく、現場で見る光景に自分の中でいまいち消化しきれない物件というのはけして少なくない。ここ野田洞もそんな物件だ。国東半島の国道213号線に連発するお宝隧道群は周知の通りであるが、それらとは距離を置く杵築平野のど真ん中に、問題の野田洞は口を開けている。国道213号線の隧道としては規格外とも言える小さな断面、そして現トンネルとの落差、それらをパッと見で国道の旧隧道を疑るに値せずと弾き出した勘ピューターの性能の低さが、古老の証言と市史とのダブルパンチによって露呈すると同時に、道路の奥深さをまざまざと思い知る事となった。九割方野田洞の正体が明らかになった今、僕が味わった衝撃度を読者諸氏にこれから追体験してもらう事になるが、特に国東や大分と聞いて黙っていられない方には激震が走る事になるだろう。当初は★二つとした当物件への評価は、マチャアキも規格外の★五つへと上方修正せざるを得ない緊急事態で、隧道王国大分の勢力図を塗り替える野田洞の逆襲に今宵D-1MAXのゴングが鳴る!

野田洞3-1byORR

道路遺構の調査発掘専門サイト:ORRの道路調査報告書

元号が明治に変わると陸路の開発が急速に進む。

明治8年大分空港道路藤原JCT付近の相原峠を経由する杵築往還が二等道路に編入される。同時期に下野田を通る間道も使われていたが、等級再編の時点において野田洞はまだ口を開けていない。

市史を紐解いた時点で街道説も江戸ッチャーも幻に終わったが、下野田猪野、相原の村民はやってくれた。

野田洞3-2byORR

道路遺構の調査発掘専門サイト:ORRの道路調査報告書

八坂川河口付近からJR大神駅付近までの5.3kmを改修費村民一部負担の下、明治16年11月28日より17年4月24日の5ヶ月弱という短期間に馬車道へと仕立て上げたのだ。

明治17年に竣工した馬車道

それは明治10年に先行して架設された八坂川の初代錦江橋の落成に因る所が大きい。

野田洞3-3byORR

道路遺構の調査発掘専門サイト:ORRの道路調査報告書

今でこそ複数の橋梁によってあたかも地続きのような錯覚を覚える杵築周辺も、明治以前は川上では川渡り、河口付近は渡し船が必然で、今日のように自由自在に通行人が立ち回れるような状況になかった。

だが明治初頭まで長らく主役を張っていた近松寺の渡しに代わり、明治10年2月に架設された長さ108m幅2.8mの錦江橋は開通当初こそ有料であったものの、償却までにそれほど時間は要さなかった。

野田洞3-4byORR

道路遺構の調査発掘専門サイト:ORRの道路調査報告書

人馬の通行しか許さぬ江戸由来の杵築街道よりも、荷車や大八車といった軽車両が楽に行き来出来る“間道”を人々は選んだのだ。

更に野田洞の開通がそれに拍車をかけ、明治中期に登場する別府杵築間を結ぶ直通乗合馬車の登場によって杵築街道との形勢は完全に逆転する。

野田洞を乗合馬車が潜った

野田洞3-5byORR

道路遺構の調査発掘専門サイト:ORRの道路調査報告書

明治44年日豊本線の杵築駅が開業しても尚その勢いは止まる事を知らない。

2年後の大正2年には別府と杵築中心部を直通する県下初の路線バスが走る。経由はなんと野田洞の構えるこの路線で、車両はシボレーの12人乗りと記録にはあるが、いくら小型とは言え野田洞を果たしてバスが通り抜けられるのだろうか?

その疑問を解消すべく畑仕事に精を出す古老に疑問をぶつけると、彼の口から思わぬ爆弾発言が飛び出した。

野田洞3-6byORR

道路遺構の調査発掘専門サイト:ORRの道路調査報告書

野田洞は確かに初代の隧道であるという。また殿様道(杵築街道)から覇権を奪ったのも間違いないと爺さんは言い切った。

問題は次だ。野田洞をバスが潜ったかという問いに対し、爺さんは首を横に振った。まさか別路線経由か?

違う

なんとこの爺さんは、野田峠に第三の隧道の存在を示唆したのだ。

野田洞3-7byORR

道路遺構の調査発掘専門サイト:ORRの道路調査報告書

マスが足りないので核心部分は定例報告に譲るが、野田洞が明治17年に竣工したのは確実で、明治24年竣工のチギリメン隧道、箕ヶ岩隧道を凌ぐ国道213号線最古の隧道である事が確定した。

また離合不能な1車線の狭路と極小隧道に乗合馬車が走り、明治中期には公共交通機関が成立していた点も見逃せない重要なポイントである。

何故なら乗合馬車の運行、そして後にバスが往来した既成事実が、竣工当時単なる間道であった平凡な路が、国道へと組み込まれた最大の要因と考えられるからだ。

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