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〜ツーリングマップルで訪ねる万の峠と億の道〜

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トップ>旧道データバンク>北海道(道央)>石狩支庁>送毛峠の実走調査レポート

送毛峠()

★★★★

送毛峠7-1

◆送毛峠7−1:整備状態良好のフラットダート

往時のままの状態を維持する山道の一部は、普通車クラスならば若干余裕ある幅員で、大型車が通れば歩行者との擦れ違いにも難儀するほどの狭さだ。そこに四輪同士の離合など望めるはずもなく、送毛峠に車道が開通したとはいえ、依然厳しい道程であったのは御覧の通りである。

また送毛と濃昼の両山道を拓いても尚雄冬岬という最大の課題を残し、国道231号線は事実上浜益で行き止まりとなっていた。留萌側からも増毛山道の開削が推進されてはいたが、浜益以北の市町村にとっては相変わらず有名無実の使えない国道として認識されていた。

送毛峠7-2

◆送毛峠7−2:安定した路面状態が続く

対象的に留萌との接続よりも札幌との繋がりを強く求めていた浜益村は燃えていた。昭和33年の送毛山道開通を機に厚田村とは未接続の部分開通ながらも、昭和39年には浜益⇔濃昼間に路線バスの運行を開始する。奇しくも当時の列島は新幹線の開業フィーバーに沸き立っていた訳だが、遠くの新幹線より近くの路線バスじゃボケがぁ!というのが、村民の偽らざる心境であったに違いない。

送毛峠をバスが越えた、これはかつて陸の孤島と称された浜益村にとって革命的な出来事で、昭和39年は浜益村にとって公共交通機関の大転換期となった。

送毛峠7-3

◆送毛峠7−3:全体的に見通しの利く山道

濃い昼と書いてゴキビルと読む小さな漁村に至っては、俺らが村にバスがやってくるという事は、新幹線が乗り入れると同等かそれ以上の衝撃であった事は想像に難くない。何故ならば濃昼山道と送毛山道に阻まれた道路と無縁の孤立した集落は、移動方法に限りがあったからだ。

ヒグマの脅威に脅えながら登山道に毛が生えたような山道を自らの足だけを頼りに縦走するか、或いは時化による難破のリスクを背負いながら海上より都市部の港湾を目指すかのどちらかしか選択肢はなく、昭和33年までは自動車との関わりは希薄というよりも皆無に等しかった。

送毛峠7-4

◆送毛峠7−4:すっかり錆びついた警戒標識

そんな濃昼の集落に車道が通じた事は、移動手段に幅が出た点では画期的であった。但しまだ各家庭がマイカーを持てるような時代ではなく、救急車や消防車やタクシーといった急を要する公共車両の出入り可能となった点は大きいが、日常における利便性の向上には繋がらなかった。

それが昭和39年になると、浜益との間を連絡する路線バスが開設される。元来内地とは密に繋がっていた浜益市街地へ、安全確実な上買い物や通勤通学等で気軽に往復できるとあらば、それこそ実生活に即した真の革命と言える。昭和39年は濃昼にとって記録にも記憶にも残る年となった。

送毛峠7-5

◆送毛峠7−5:石垣の法面

浜益⇔濃昼間を結ぶ路線バスなど吹けば飛ぶようなチンケな存在だ。だが濃昼地区の住民にとっては掛け替えのないものであり、また浜益にとっては濃昼地区の救済以上にバスの運行は大きな意味を持っていた。その背景には将来的な札幌直通バスという青写真があった。

バスは送毛峠を克服できる、村はそれを内外に知らしめたかったのではなかろうか。国道が全通しても公共交通機関が確立されなければ意義は半減する。鉄道が通じない地域であるから、バス路線の開設は至上命題であった。その先鞭を付ける目的で開設されたのが峠越えの濃昼線だ。

送毛峠7-6

◆送毛峠7−6:コーナーの外周を擁護する石垣

浜益⇔濃昼間を往復する路線バスは、それだけを眺めれば単なる地域密着型の過疎路線に過ぎない。だがその背景には、大都市圏と村とを乗り換え無しで結ぶ札幌直通バスを、国道の全通とほぼ同時期に何としても実現に漕ぎ着けたいと願う浜益村の強い意思が見え隠れする。

事実村が描いた青写真は、昭和47年の石狩河口橋の部分供用を以て現実のものとなる。送毛山道名物のあの脅威のヘアピン“千の風”を物ともせず、一路浜益へ向け長距離バスは札幌市街地を滑り出す。浜益村の用意周到な策が功を奏し、都市間長距離バスは遂に日の目を見たのである。

送毛峠7-7

◆送毛峠7−7:舗装/未舗装の接点

 これでどこへ行くにも一度滝川へ出ねばならい不便さも解消される。ただ海岸道路の開通で全てが丸く収まる訳ではなかった。何故ならば当時の道路事情は劣悪で、石狩川を跨いだ先のほぼ全てが砂利道であったからだ。

 直線区間はまだマシで、札幌から濃昼までは耐えられたとしても、幾度となく左右に大きく揺さぶられる七曲りの難所ではほぼ地獄絵巻の様相と化し、最早焦点は誰がどれだけのコマセを車内に撒き散らしたかにあった。

送毛峠8へ続く

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