ORRの道路調査報告書:全国の廃道隧道酷道旧道林道を個人が実走調査したレビュー

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非道隧道(8)

★★★

 

非道隧道の取扱説明書

もしも突然歴史上の人物を一人挙げよ3・2・1・Q!と問われたならば、僕なら間違いなくザビエルと即答するだろう。そう、フランシスコザビエル。教科書にも登場する世界的エロ河童キリスト教宣教師だ。彼の生まれ変わりがアルシンドであるという事実は、いずれオーラの泉で明らかとなるだろうが、前説はこれくらいにして、早速取説に入りたいと思う。もしも突然歴史上の人物を一人挙げよ3・2・1・Q!と百人アンケートを取った際、恐らく回答数ゼロは避けられないであろう人物、三島通庸。日本史の、それも近現代史に登場する彼の名を目にする機会は皆無に等しい。だがひとたび的を道路に絞れば、直ちに彼の名は大きく浮上する。はっきり言って三島通庸抜きに東北の道路、ひいては日本の道路史さえも語れまい。旧廃隧道を語る上で、彼の名を避けて通る事は非常に困難を伴うのである。ここに彼の残した軌跡の一部を列挙しよう。万世大路、大峠、関山峠、雄勝峠、主寝坂峠、宇津峠、加茂坂猿羽根峠山王峠。どうだろう?東北各地では石を投げれば三島に当たると言わんばかりではないか。僕は彼の名を知らぬままサイトを開設し、気が付けばいつの間にか彼の手の中で踊らされていた。道路の現状報告に徹し、あえて歴史とシンクロさせて来なかったORRの怠慢と言ってしまえばそれまでだが、今後は徐々に歴史的考察にもメスを入れていかねばなるまい。まずはその第一弾としてザビエル=河童説の是非を問う。(嘘)

 

非道隧道8-1/ORR

ドライブ&ツーリングのネタ帳ORR

「この先の橋坂隧道にて落石の危険があるため当分の間通行止めとします」今更正式名称出されてももう遅いがな。因みに橋坂とは対岸の地区名称である。現在は町道の肩書きを持つ三島明治道。そこは確かに今でも車両を通した。だが致命的な問題がひとつだけ大きく立ちはだかった。建物との隙間を縫うには絶妙なピッチで、ピッタリと明治道を塞ぐ2t車。その先も車車車、CarCarCar。駄目だ

非道隧道8-2/ORR

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こりゃ、撤収!こうして三島明治道の探索はその実に90%近くを攻略しておきながら、予想外の障壁によって幕を閉じた。鉄柵越しにやや寂しげな表情で佇むヘナリワン。こうして無事にここまで来られたのだ、もうそれだけで充分だろう。僕は鉄の愛馬を労い鉄柵に背を向けると、その場から自身の気配を掻き消した。これで仕事が終わった訳ではない。明治道の起点へと戻り、そこから現在の

非道隧道8-3/ORR

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国道で若水橋を跨ぎ、阿賀川を挟んだ対岸の橋坂地区を通り抜け、再び楢原橋にて阿賀川を飛び越え、旧道との分岐点から私有地の反対側へと接近し、そこから最後の詰めとして三島明治道の決着を付けねばならない。先程撤退を余儀なくされた私有地と思わしき土地の裏側へと取り付いたヘナリワン。そこで目にしたのは旧道時代の忘れ形見であった。道路両脇に残る40キロ制限標識。

非道隧道8-4/ORR

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実はこれが機能したのはたったの数年間に限定される。婆さんは言った。この村(当時は樽原村)に嫁いだのが昭和10年、その時既に鉄道は営業を開始(昭和9年)していたが、ほぼ時同じくして険峻な絶壁の阿賀川に道路橋を渡したという。それが初代若水橋である。現在の橋梁とは比べ物にならない位貧相な橋で、自動車が通るたびに揺れに揺れたという。勿論そこに現在のような人道橋は

非道隧道8-5/ORR

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存在せず、歩行者、荷車、自転車、単車、ボンバス、トラックに自家用車と玉石混合で、貧相で狭いコンクリ橋がそれらを一手に引き受けていたという。それでも二代目が架かるその時まで30年も持ち堪え、国道指定(昭和27年二級国道121号線)まで受けたのだから褒められていい。この時若水橋と対になっている楢原橋も同時に橋梁が架けられたと見て間違いない。それが現在の国道の

非道隧道8-6/ORR

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原型となり、二代目若水橋(昭和41年11月竣工)二代目楢原橋(昭和40年11月竣工)がそれぞれ引き継いだ。昭和40年4月1日一般国道121号線の制定に合わせ付け替えられた両橋だが、既に昭和10年の時点で三島明治道から覇権を奪っており、鉄路と道路がまともな形で並走したのは昭和9年から10年にかけての僅か1年強。昭和初期に通じた橋坂新道は、後に国道へと昇格。こう

非道隧道8-7/ORR

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して末期は乗合自動車まで通したと婆さんが言う三島明治道は、国道昇格という日の目を一度も見ぬまま没したが、たった一度だけ迂回路として国道扱いされた時期がある。それが若水楢原の両橋付け替え時期の数年間だ。制限標識や道中に見たガードレールの残骸やコンクリ橋はその名残だろう。ミッチョンインポッシブルパートT(完)。

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